夏のアカペラ

 壇上にはミドルティーンの女の子たち30人余りがきれいに並んでいる。どの子も顔や肩や姿勢を緊張させながら。

 始まった。伴奏もなく音楽教師と思われる指揮者のタクトだけを目で追うアカペラがほとんど起伏の無い旋律をなぞり続ける。ピアニッシモとせいぜいがピアノだけの抑えられた声量は、単純な歌詞を輪唱によって延々と繰り返すことで退いては返す波のようなうねりをステージの上に作り上げた。曲名を失念してるのだけど、だれもが口ずさんだはずの童謡だ。「ほたる」という名だっけ?

 この小さな声量の輪唱アカペラは客席でふんぞりかえっていた私の姿勢を正させ、唾を飲むことさえ許さない。私がステージに見たのはまぎれもなく蛍だ。暗闇にぼうっと浮かんでは消える蛍の光のハーモニーだ。これは"歌"じゃない。歌による情景スケッチだ。輪唱最後の声が消え入るような「ほっ」で終わった瞬間、そこに飛んでいた蛍の群が闇の中に消えていくのを見た。

 動けなくなっていた客は歌が終了してもしばらくそのまま。はっと我に返り、嵐のような拍手が会場に湧き立った。見ると、ステージの上にはどこにでもいる10代の女の子たちが顔を上気させてたたずんでいた。暑い夏の市民文化会館。


 そういえば、これと似たようなステージを20年ほど前にも体験している。同じ7月だったかな。やはり暑い夏だった。

 会場は市民文化会館とは比較にもならない小さなホールである。舞台に並ぶ主役は10名にも満たない心細気に見える女子中学生。大丈夫かなこんな少人数で。アカペラだというのは同じだが、このときは輪唱ではなく二部合唱。おいおい。この人数をさらに分けてどうすんの。

 「さとうきび畑」という歌をまともに聴いたのはこのときが初めてである。まだ顔のどこかにあどけなさを残す彼女たちの声は穏やかで淡く、でも、一生懸命だ。正面切らない歌詞だからこそ、深い井戸の底で眠り続けるひそやかな悲しさというか、やるせなさというか、は、あとからずしんっと伝わってくる。彼女たちの予想外な美しい声と旋律で運ばれる静謐な詩に私はうろたえ、なにかがせり上がり、それが目尻からこぼれてきた。「反戦歌」なんて安易なレッテルを拒む意志がここにはある。この歌との出会いがこういう場だったのは多分幸運なのだろう。感謝したい。

 合唱が終わった後、ステージを下りる彼女たちの一人に声をかけ、無理を承知でもらった「さとうきび畑」の楽譜は20年のときを超え今も私の手元に残っている。すっかりセピア色に変わったけれど。

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どっちの観察会

 じっとしている。
 丸くなった石に身を寄せ水辺でじっとしている。ヒトが近づけば逃げていく他の仲間をよそにじっと丸まっている。
「あれはタシギだよ」
「タ・シ…なんだって?」
「え。どこどこ」
「昔は田んぼなんかでよく見たもんだ」
「わあ。きれい」
「なにが見えるのー」
「いやぁ。こんなところでタシギにお目にかかれるとはなぁ」
「寒いよー」
 老若男女の声が飛び交う。幼い声も混じる。レンズから目を離してみた。体温がみるみる奪われる感覚に気づき首をすぼめてフードを被る。ぶるる。風はほとんど感じられないのに頬に触れる空気はまるで氷のようだ。かじかんだ手で双眼鏡をもう一度目に当てる。うー寒っ。もしやあの水の中の方が温かいんじゃないかい。どうなんだタシギくん。

 こいつのクチバシは他の種類と比べても異様に長い。丸っこく縮めた体長とほぼ同じなんじゃないか。もちろん水中の餌を仕留めるためにはその方が都合がいいのだろうけどちょっとアンバランスじゃないか。そのアンバランスの各パーツに色が乗せられている。黒々とした丸い目。白っぽい薄茶の上にこげ茶を流した複雑で独特な縞模様の羽。そして長く伸びた褐色のクチバシ。自然の神は職人でもありアーティストでもある。寒さを一瞬忘れさせるほどの。
 動かないのをいいことにじっくり鑑賞させてもらったよタシギくん。…こちらこそ震えるきみたちをじっくり観察させてもらったよニンゲンくん。つぶらな黒い目はもしやそう言ってなかったか。

 他にはユリカモメを筆頭とするカモメ類の群。ひとりで目立っているアオサギ。ぷかぷか浮かんでるコガモなどのカモ類。ウミウやウミネコもいるぞ。こうした常連さんが川幅ざっと600メートルの河口でこの冬も羽を休めているのだった。年中棲み家にしているトンビやヒバリ、カラスはご愛嬌だ。一体全部で何種類がここにいるんだっけ。渡ってくるんだっけ。去年教えてもらったことをもう忘れている。約70種類ですよ。そばにいる去年と(たぶん)同じインストラクターが去年と(たぶん)同じように教えてくれた。はて。アナタ去年も同じ質問しませんでしたか。そうは言わなかった。さすがは日本野鳥の会だ。だてに双眼鏡覗いてカウンタかちかちするためにかつてNHK紅白に呼ばれていた訳ではない。最近出番ないのはどうして。間違っても、だからそう尋ねてはいけない。なにしろ日本野鳥の会だ。

 海を背にして河口を正面にすると視界の外に妙な違和感があった。首を向ければ左岸には建設中の巨大な病院が徐々にその存在を主張しつつあり、右岸には完成して1年になる風力発電の巨大プロペラが音もなくゆったりと回っている。それぞれ左右から野鳥たちの楽園を威圧するかのようでもある。鳥たちは、しかし今年もここにやってきてくれた。来年はどうだろう。また来てくれるよねタシギくん。風景をこうしてぼくたちニンゲンがだんだん変えてしまうけど。ニンゲンたちの観察においで。

 ●タシギ(田鴫)
  学名 Gallinago gallinago
  英語名 common snipe
  体長 27cm

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恥ずかしい

 単純なことを複雑に考えない
 使い手の無意識にせまる
 自分を消すことで美は手に入る

 「市松」、「錦鯉」、「杏仁」という呼称の付いた携帯INFOBAR。換気扇のような壁掛けCDプレーヤー。アンパンから水煙が立ち上る赤い加湿器。こうした幾多の商品を手がけた工業デザイナー深澤直人氏はそう語った。簡潔だった。携わった商品のようにまるで。

 インタビュアーは質問する。
 「自分のデザインした商品が売れてるのを見てどう思うか」

 深澤氏は答える。
 「恥ずかしい」


 目に見えない音楽というもの。一瞬たりとも同じ空間に留まることのない音楽というもの。それをことばに置き換えようともがく私の文章は簡潔や単純の対極にある。なんだか「恥ずかし」くなった。

 『プロフェッショナル・仕事の流儀』というTV番組を見てしまったせいだ。くそぉ。これだからNHKは困るのだ。っても明日になればこの恥じらいを忘れるのは目に見えている。今夜くらいは恥じらってやろう。

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マイ・オムニバス VOL.18 後

【撃ったのは自分かもしれない】 74年 10/11

11 真夜中を突っ走れ / ジョン・レノン
12 愛ある世界を求めて / オズモンズ
13 ジャズマン / キャロル・キング
14 1984 / デヴィッド・ボウイ
15 ワイルド・ワン / スージー・クァトロ
16 トゥナイト / ルベッツ
17 オーバーナイト・センセイション / ラズベリーズ
18 プリーズ・ミスター・ポストマン / カーペンターズ
19 ジュニアーズ・ファーム / ポール・マッカートニー&ウィングス
20 オンリー・ユー / リンゴ・スター

 『キリング・フィールド』という映画がある。「赤いクメール」が絡む75年当時のカンボジアを舞台に奮闘するプランという名の現地通訳とアメリカ人記者が出てくるあれだ。この映画のあちらこちらに流れるマイク・オールドフィールドの調べは適度に抑えられていていい味出している。ラストにジョン・レノンの「イマジン」を持ってきたのは、しかし、気分悪かった。あれは過剰演出というものだ。私なら使用許可しなかったぞ。どうしても使いたいのなら「真夜中を突っ走れ」にでもすればよかったんだ。4年ぶりの再会を果たす二人には手を取り合って軽やかに踊ってもらおうこのロックンロールで。楽しいぞ。腰が動くぞ。どうだ監督。なに。涙流して抱き合うシーンには合わない? だったら最初から使うんじゃない。心揺さぶられるシーンに音楽は邪魔以外のなにものでもないことがほとんどなのだ。耳になじんだそれなら最悪というものだ。

 ところでその『キリング・フィールド』にはほんのわずかだがポール・マッカートニーの「ジュニアーズ・ファーム」…じゃなかったな、「バンド・オン・ザ・ラン」が流されている。軍の攻撃を受け壊滅した町はすでに無表情であり、巡回するジープ上のアメリカ軍女性?兵士の顔にも表情というものがない。耳にあてられた携帯ラジオから聞こえてくるのだその「バンド・オン~」が。この落差は秀逸である。「イマジン」のそれと比べて云々レベルの話ではない。

 それにしてもどっちを向いているんだ今回。音楽なのか。映画なのか。そもそもこれのどこがオムニバスの話なのだ。これでいいのか。いいのか。いいのだ。進めよなまけもの。

 ということで、さらに『キリング・フィールド』。この映画は処刑シーンをそこかしこに散りばめている。赤いクメールだったか政府軍だったか、それともアメリカ軍だったか。どこでもいいか。相手をヒトと見なしてないことの最も不幸な瞬間の連続。
 とはいうものの、戦争という名の狂気は当事者をしてそれを不幸だと感じさせてくれないのかもしれない。銃を持つ当事者に自分がならなかったのは偶然なのだろう。虫けらのように撃ち殺されたヒトが自分でなかったように。かの人達と自分はどこがどう違うというのだ。
 帰還後、"普通"の生活に戻されたかつて銃口を無抵抗の頭に当て引金を引いたことのあるヒト達の、その罪を背負ってる意識の突然の目覚めを想像してみ…。などと安易な想像は少し躊躇されるも、それこそImagine。想像してごらん、だ。
 ヒトが登場して以来、限りなく繰り返される古今東西ありとあらゆる戦の中で無限に繰り返されるこの手のシーン。今もどこかできっと繰り返されている。「あちら」の世界じゃない。「こちら」の世界で。


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矢田もいいけど小雪もね

 私が見たテレビドラマといえば、『寺内貫太郎一家』と『ふぞろいの林檎たち』だけだと思う。何百年前のことだ。だいいちテレビなんてもうまともに見ていない。報道とスポーツ関連を除けば。

 ところが、去年の今頃毎週欠かさず見てしまったブツがあるのだよ。『僕の生きる道』。途中からハマっちまった。不覚っ。こうして『ふぞろいの林檎たち』以来、画面と向き合ったのだった。終盤はちとかったるくなったんだけど、中盤に見せる数々の演技や絞りに絞られたセリフに何度心揺さぶられたことか。余命1年と宣告された中村先生演ずる主役の草彅剛より脇役の面々に特に。主治医役の小日向文世のひとつひとつは短くも深く、ときにはユーモアにコーティングされたセリフの数々。小気味良い喋り方もいい。喜びと悲しみと幸せと無常感と切なさなんかで胸の中を一緒くたにかき混ぜられたときの森下愛子の渾身の演技は、あれは一期一会もんだ。それにしても光と影の使い方に見るカメラワークといい、携帯電話を一度たりとも出さなかった演出といい、画面に流れる独特の透明感と静寂さとユーモアと温かみが心地良かった。私はこのドラマですっかり矢田亜希子のファンになってしまっ…てのはどうでもいいことか。はは。よーくかんがえよぉぉ。

 などと古い話題を振っているというのも「次」が始まってしまったからなのだ。『僕と彼女と彼女の生きる道』か。ドジョウにょろりんじゃないだろね。なになに、こ、小雪が出ている? んじゃ、み、見るかな。『ラスト・サムライ』の彼女はよかった。いろんな気持ちのごちゃまぜを胸の奥にしまい込む演技がね。注目すべきは渡辺謙だけじゃないのだよ。鋭い眼光ぎょろりと流す表情には惚れたけど渡辺くん。

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